SSP講演会の概要と記録(1)

はじめに

  科学に対して生徒たちがもつイメージはニュースなどで耳にしたことのある分野について「おもしろそうだな」と漠然と思っている程度で、具体性に欠けるきらいがあります。

 そこで、SSP講演会では、自然科学およびその関連分野について造詣の深い講師を大学や研究機関等からお招きし、最先端の内容を具体的にお話いただくことによって、生徒の興味・関心を深める意図をもって実施されます。

 また、今、自分が身につけるべきスキルについて生徒に再認識させ、自らのキャリアデザインを行う動機付けとさせる意図ももって行われるプログラムの一つです。

 

講演会の概要

  

実 施 日

講  師

テ ー マ

第1回 9月17日(木) 北海道大学 露崎 史郎 先生 攪乱の空き地と生態遷移
第2回 9月18日(金)

大阪大学 安食 博志 先生

光とは何か?
第3回 10月5日(月) 京都薬科大学 橋本 貴美子 先生 カバの汗はなぜ赤い?
第4回 10月9日(金) 神戸大学 谷口 隆 先生 整数と素数の不思議な世界
第5回 10月15日(木) 山下医院院長 山下 豊 先生 医者の仕事について
第6回  10月28日(水) 大阪大学 羽原 英明 先生 レーザー核融合のお話
第7回 10月30日(金) ㈱ 旭化成 巽 俊二 先生 せんいから色々な事業へ
第8回  11月4日(水) 大阪市立大学 橋本 文彦 先生 経済学と私たちの生活
第9回 11月5日(木) 京都大学 北井 礼三郎 先生 太陽系を揺るがす太陽表面爆発

 

第1回講演 「攪乱の空き地と生態遷移」 

北海道大学大学院 地球環境科学研究院 准教授 露崎 史郎  先生

 自然林において、火山の噴火や溶岩流出などの撹乱が起きると、その後の植生はどのように変化していくのであろうか。乾性の一次遷移については、教科書には苔類・地衣類に始まり、一年生草本、多年生草本、低木、陽樹、陰樹と法則性を持って植物相が変化することが示されている。しかし、20年以上にわたる有珠山火口原の調査によって、場所により多年生草本や低木から一次遷移が始まることが確認できた。苔類が10年以上出現しないのは、雨水によって表土の火山灰が流出する間定着できないからである。また、多年生植物の栄養器官や埋土種子からいち早く草本が出現し、裸地として残った所に樹木の実生が発芽して、裸地であった所の方がかえって更新が早く進む現象も見られた。

 アラスカの不連続な凍土において、森林火災後の植物の移り替わりについても研究を行っている。南側斜面は日照で温かくカンバなどの落葉広葉樹林となる。一方、北側斜面は低温で、土壌での有機物の分解が進まず、クロトウヒの針葉樹林となっていた。ところが、地球温暖化に伴い、森林火災が樹冠に止まらず林床のミズゴケまでも焼失するようになって、状況が変化した。林床の富栄養化で北側斜面にもカンバなどの落葉広葉樹が生育し、クロトウヒは競争に負け衰退しつつある。現在、クロトウヒの森林を残す方法を模索している。地球温暖化を生態系の変化の面から考えると、植物の極方向への移動をもたらすが、実際は種子散布の速度は限られており、移動が追いつかないときには生態系の崩壊が起こりうる。「自然を深く観察したならば、全ての物事をよりよく理解するようになるだろう。」

 

 

 

第2回講演 「光とは何か?-光科学への招待-」 

大阪大学光科学センター 教授 安食 博志  先生

 「光が有限の速さで伝わるのか、それともどんなに遠くにでも瞬時に伝わるのか」は、ガリレオ・ガリレイ(1564-1642)も実験で確かめようとしたが、判断できなかった。初めて光の速さを求めたのはレーマー(1644-1710)であった。レーマーは光の速さが有限であると仮説を立て、木星の衛星イオの食の周期が一定でないのは木星と地球の距離が変化するためであると説明した(1676年)。このときレーマーが発表した光速の値は、秒速約20万kmであった。レーマーと交流のあったニュートンは著書「OPTICS」でこの説を取りあげているが、当時世間ではあまり受け入れられなかった。

 レーマーの光速有限説から半世紀あまり後、レーマーとは全く違った方法で光速を求めたのはブラッドリー(1693-1762)であった。もともと恒星の年周視差を検出しようと、りゅう座γ星の正中高度を精密に測定していたブラッドリーは、年周視差ではない正中高度の変化を発見した。この変化は、光の速さが有限であるために、天体の位置が地球の公転方向にずれて見えるという年周光行差であった。ブラッドリーはこの年周光行差の大きさと地球の公転速度から、光の速さを秒速約28万kmと発表した(1728年)。

 地上での実験で光速を初めて測定したのはフィゾー(1819-1896)であった。フィゾーは1850年に、歯数の多い歯車をチョッパーとして用い、8.6kmの距離を光が往復する時間から光速を求めた。その翌年(1851年)、フーコー(1819-1868)は歯車の代わりに回転鏡を用いて光速測定に成功した。フィゾーの実験に比べ光を往復させる距離が短くてすみ、室内でも実験可能であった。このため水中での光速も測定することが可能となり、光の波動説と粒子説の争いに一応の決着をつけることとなった。
 波が伝わるときには、波を伝える媒質が必要である。ロープを伝わる波ではロープ自体、海の波では水が媒質となる。音波は、空気中も水中も固体中も伝わるが、媒質の存在しない真空中は伝わらない。しかし、光は真空の宇宙空間を伝わって地球まで届くので、光は真空中を伝わることができる。では、光を伝える媒質は何であろうか?光を伝える仮想的な媒質を当時「エーテル」と呼んでいた。この「エーテル」は、ギリシャの自然哲学に由来する。これは、地上のものを作っていると考えられていた空気・土・火・水という4大元素に対し、天界を満たしていると考えられていた5番目の元素につけられた名前である。19世紀末、エーテルの存在と性質は議論の的であった。宇宙空間をエーテルが満たしているなら、エーテルに対して地球は運動していることになる。光がエーテル中を伝わるなら、地球の運動方向と反対方向では、光の速さが異なって見えるはずである。アルバート・マイケルソンは、エドワード・モーレイと精密な実験を繰り返した(マイケルソン-モーレイの実験)。彼らは1887年頃まで実験を続けたが、結局、両者に違いを見つけることはできなかった。ところが、マクスウェルの発見した電磁波では、電磁波を伝える媒質は不要である。電磁波が伝わる時には、電場の変化が磁場を生み、生まれた磁場の変化がさらなる電場を生む。電場と磁場が交替交替に相手を生成していくのだ。電磁波が、自分で自分を編み上げながら進んでいくので、媒質が存在しない真空中でも伝播できる。「エーテル」はマクスウェルの電磁波理論によって完全に不要なものとなった。これは特殊相対論誕生前夜のことであった。アインシュタインは「もし飛んで行く光の矢を光速で追いかけたら、光の矢はどうみえるのだろうか?」と考えた。アインシュタイン16歳の時だった。時速100kmで疾走している車を同じ速度で追いかけたら、相手の車はほぼ静止しているように見えるだろう。光を光速で追いかけたとしたら、光も止まってみえるのだろうか?アインシュタインの直感は否定した。経験的にもマクスウェルの電磁場方程式から考えてみても、そんなことは有り得ないはずだ。アインシュタインは「光は誰からみても光速で走る光でなければならない」と考えた。そういう意味で、光速度Cはある絶対的な基準なのである。アインシュタインは、次のような答えに辿り着いた。「光は誰からみても光速で進む。どんなスピードで運動している観測者が測っても光の速度は常に光速度Cになる」これこそが、特殊相対論の1つの柱である「光速度不変の原理」である。しかも1905年にアインシュタインが特殊相対論を着想した時には、マイケルソン-モーレイの実験は知らなかったという。しかしこの光速度不変の原理こそ「マイケルソン-モーレイの実験」を明快に説明するものであった。

 特殊相対論のもう1つの柱は「特殊相対性原理」である。これは次のような考え方である。「じっと静止している人にとっても動いている人にとっても、自然の法則は同じように成り立つ」(ただし、特殊相対性原理では、動いている人といっても等速直線運動に限っている)これは「自然の法則は誰に対しても同じように成り立つ」という、ガリレイ以来の考え方を広く捉えたものである。この原理においてアインシュタインは、絶対空間や絶対時間を放棄し、代わりに「光速度」という絶対的基準を設定した。すなわち、アインシュタインの理論によれば、“時間や空間は変わり得る”と考えることになる。以上、光の解明に果たしてきた実験と理論の役割や、光の考察から特殊相対性理論や量子力学が構築されていく様子が説明された。