平成29年度 創立記念講演会の記録

 平成29年11月2日(木)、創立記念講演会が本校体育館で行われました。今回は、講師にバリトン歌手の星野 淳 先生をお迎えし、「南極からオペラ歌手へ」というテーマでご講演いただきました。

 星野 淳 先生の紹介は、奈良高校・北海道大学と同級生だったということで、西の京高校の森田 好博 教頭に紹介していただきました。

 講演後、生徒会総務委員長の亀田崚さんからお礼の言葉と花束贈呈がありました。

 星野 淳 先生・ピアノ伴奏の比留間 千里 先生ありがとうございました。

 

 

講師略歴

 奈良高校全日制昭和54年卒 北海道大学理Ⅰを経て、北海道教育大学札幌分校特設音楽科を卒業。二期会オペラスタジオ第34期研究生修了、優秀賞を受賞。平成4年度文化庁芸術インターンシップ研修員。日本人離れした輝かしい声、豊かな音楽性に基づいた的確な音楽解釈により、多くのコンサート・ソロのレパートリーとする。更にはドラマ性重視の卓越した演技力を駆使し、「フィガロの結婚」「ドン・ジョヴァンニ」「魔笛」「コシ・ファン・トゥッテ」「リゴレット」「トロヴァトーレ」「椿姫」「仮面舞踏会」「運命の力」等の主要バリトンロールをレパートリーに持ち、二期会公演「学生王子」「ジャンニ・スキッキ」「コシ・ファン・トゥッテ」「こうもり」「ヘンゼルとグレーテル」「ダフネ」「メリー・ウィドー」、新国立劇場「カルメン」「セヴィリアの理髪師」「道化師」「ヴォツェック」「ジークフリートの冒険」「蝶々夫人」「光」「愛怨」「黒船」「ペレアスとメリザンド」と何れも大役で絶賛された。イタリアのプッチーニ音楽祭では、三枝成彰「Jr.バタフライ」の超難役詩人役を唯一人イタリア語で演じ切り、満場のスタンディングオベイションの喝采を浴びた。二期会会員。オペラ・アンサンブル・ヴォーチェ代表。

 

講演記録

「椰子の実」大中寅二作曲、島崎藤村作詞

 わたくしが星野淳と申します。難しい講演にはならないように、簡単に言えばライブのような感覚で皆さんに接してもらえればなと思います。しばらくちょっと歌っていきますよ。今のは「椰子の実」という歌ですね。これは島崎藤村の詩なんですけども、島崎藤村の親友であった柳田国男さん、随筆家の柳田邦男さんという方もいらっしゃいますけどこの人ではなくて、彼よりも60年ほど前の方ですね。民俗学者か、『遠野物語』とかをね、書いた人ですけれども、その方が若き頃に愛知県の渥美半島の先端、伊良湖崎に宿泊していた時に椰子の実が流れ着いた。これは黒潮に乗って南洋からずっと、何百キロあるいは何千キロも流れてきたかもしれない。それを見つけたという話を藤村に話したそうなんですね。そして藤村がそれをもとに書いたのが、この「椰子の実」という詩なんです。望郷の念が募るといいましょうか、いい歌だなあと思っていますけれどもね。皆さんの心にもどう響いたかなと思うのですが。これは1901年に藤村が発表した詩なんですが、曲がついたのはずっと後です。1936年ですか、だから35年後です。大中恩さんという作曲家、ご存知かと思いますが、合唱とか童謡の作曲家としてまだご存命、90歳ぐらいになっておられるのかな?のお父さん、大中寅二さんという方が曲をつけて、このような日本を代表する名歌になったわけですね。「椰子の実」でした。さあ続きましてもう一曲日本の歌を歌います。「初恋」という歌なんですが、これは石川啄木ですね。岩手県で生まれて、ある時期北海道函館そして小樽、札幌、釧路と、放浪していたわけではないんですけどまあ転々としました。若くして26歳でこの世を去ったのですが、ちょっと「放浪の歌人」のように表現したりするんですが、啄木の詩によります。詩じゃないか、短歌ですね。この歌は越谷達之助という人がこの啄木の歌に曲をつけたんですね。そして、この「初恋」だけがもう誰の心にも染み渡るような名歌、名曲として残っているわけです。この曲が名曲たる所以は、途中のピアノの間奏にあります。初恋というのはほぼ確実に悲恋に終わるわけですね。そうですよね。それぞれの胸にしまっておくことかもしれませんけれど。それぞれの初恋が、途中のピアノの間奏のところで時間を超えて昔に戻って思い出されるそういうつくりになっているからかな、なんて思います。では聞いてください。

 
「初恋」越谷達之助作曲・石川啄木作詞
   

 思い浮かべましたか。この砂山の砂ってありましたけど、どこの砂かといいますとこれは函館です。函館の大森浜というところですけれどもね。そして函館の大森浜を望むちょっと湾曲したところに立待岬というのがあるのですが、そこに啄木一族の墓があります。この歌にはずいぶんお世話になっていますし、もう何十回何百回も歌っています。大好きな曲です。だからいつもそこへ行きますと啄木のお墓にお参りして、どうもありがとうございます、お世話になってますと言ってるんです。日本の曲から2曲聞いていただきました。

 もう1曲、歌を歌いますね。じゃあ、ドイツの歌なんで、ドイツ語で歌います。シューベルトの魔王という曲。これは、中学校1年生で観賞教材になってるから、たぶん聞いたことがあるでしょう、みなさん。簡単な内容といえば、嵐の夜にお父さんが馬に乗って坊やを抱っこして家路を急いでいるんです。夜ですよ。それで森の中を走ると、木がざわざわと音を立てますね、その音が魔王のささやきに聞こえるので坊やは「お父さんお父さん、魔王がささやいてるよ」、お父さんは「大丈夫、あれは木がざわざわしてるだけだよ」となだめる。でも、「お父さん、魔王がこっちおいでおいでってやってるよ。見えるよ」と言うんですが、お父さんは「あれは木が揺れてるだけだよ」と言うんです。でも、余りに坊やがおびえるものでお父さんは馬を早く走らせて急いで家に戻ったのですが、坊やはお父さんの腕の中で息絶えていた、こういう物語ですね。大変怖い物語なんですが、これを歌いたいと思います。ではあの魔王とお父さんと坊や、3つを歌い分けます。魔王が歌ってるときは正面を見ます、想像してください、そして、おびえる子供の時はこちら(左手)を見ます。なだめるお父さんの時はこちら(右手)を見ます。じゃあ、どの時が一番激しく歌うかっていうと、魔王と思うじゃないですか、違うんです、もう知ってるかな?魔王は優しく優しく歌うんです。そして、激しく歌うのが坊やのところなんです、そこがうまく作られているところです。魔王が3回、お父さんと子供が4回ずつ、そして、最初と最後に語りの部分があります。場面説明なんですが、そのときはピアノに手をかけて歌いたいと思います。ですから、13の歌を一人で歌い分ける、非常に難しいんです。世界で一番頭がこんがらがってしまう忙しい歌と称することもあります。そしてこの曲はピアノ伴奏がまたすごいんです。世界で一番うまい歌曲の伴奏者として有名なジェラルド・ムーアという人がいて、この人はたくさんCDとか、昔はレコードとか録音しているんですが、どれひとつとして完璧には弾けていないんです。そういう難しい難曲ですが、比留間さんが挑戦してくれます。じゃあ、二人で難しい歌に挑戦しますよ。


「魔王」シューベルト作曲・ゲーテ作詞

 

 はい、すごいピアノでした。これを歌うときにはふたを小さくしなきゃいけないんですが、忘れてました。途中から激しいとこになったら、「何だ、歌がよく聞こえないぞ」ってなっちゃったかもしれませんけれどね。ピアノは大変なんです、右手でだだだ、だだだ、だだだっとずっと三連符を強打する。これがずっと続くんで腱鞘炎になりそうな感じなんですけれども、ピアニストの方。あっやってますね(生徒)。あっちでもやってましたね。ピアノ弾く人なのかな。これはね、詩はドイツの大文豪ゲーテなんです。ゲーテは1749年生まれかな、それでシューベルトは1797年生まれ、だから48歳違いかな。これを作曲したのはなんと皆さんと同じくらい、17歳だそうですよ。それでその最初の頃ゲーテは「何だそんな作品」と言ってね、ちょっとケチをつけて認めなかったらしいんですけども、シューベルトが先に亡くなったんです。それでシューベルトの死後「あの、作品はいいね。」と認めたそうです。それはあの17歳の少年が作った音楽が自分が書いた詩をも上回っていた、という風に感じたんでしょうね。だからちょっと悔しくて最初は認めなかったのかもしれない。でも、すごいぞっていう風に後になって認めたそうです。シューベルトの魔王でした。聞いたことあったと思うけど、懐かしかったですか。覚えてない?覚えてる?どうでした今の?魔王がちょっと見えてきた?はい。うんうんと言わざるを得ないですね。はい、ありがとう。シューベルトというのは、1797年生まれって言いましたけれどもね、非常にベートーベンのことを敬愛していました。ベートーベンは1770年に生まれて1827年に亡くなるんです、だから27歳違いなんですが、ベートーベンが1827年に亡くなって、シューベルトはもう自分にも死期が近づいた時に、自分もウィーンの中央墓地にあるベートーベンのお墓の隣に墓を作ってほしいって言い残したんです。だから今もちゃんと二つ並んでるんですね。1年違い、翌年に亡くなっています。31歳の若さで亡くなってるんです。歌曲の王と言われます。歌曲だけでも600曲以上作ったと言われてます。すごいんですが、この歌曲以外にももちろんピアノソナタだとか、シンフォニー交響曲とかいろんなコンチェルト協奏曲そしてオペラなんかも作っています。非常に多作家なんですが、歌曲がずいぶん取り上げられていますね。
 ここまで歌の歌曲を3曲お届けしましたけれども、私の生い立ちからしゃべってみたいと思います。私は1961年、昭和36年ですね、東京で生まれました。そして、東京オリンピック目前の1964年9月、3歳の時に大阪の吹田、駅でいうとJR、昔の国鉄の千里丘に越してきまして、そこで小学校に入りました。そのとき同じ社宅に住んでいたのが、これもすごい不思議なんですが、2歳年上で、オペラ歌手の佐藤しのぶさんなんです。皆さんはほとんど知らないかもしれないけど、先生方はよくご存知だと思うんですが、つい一昨日まで一緒に東京でオペラの仕事をしてました。会うとよく私たちって一番昔から知っているお友達なのよね、なんて言ってくれるんです。偶然そういうことがありました。それで、そこを小学校2年生までいまして、3年生なるときに大和郡山の平和団地に来て、平和小学校に入りました。その後小学校4年生の3学期から福岡に引っ越しすることになりました。そしてそこで中学生になり、中学校2年生の夏にまた、こっちに戻ってきました。戻ってきたのが郡山中学、郡中ですね。今はちょっと西のほうにあるようですけれども、今の郡山城ホールっていうのかな、あそこに昔はありました。9クラスくらいあったのかな、とっても大きな中学校でした。そこへ戻ってきて、そして、高校受験のことが目の前に迫ってきたんですけれど、じゃあ、どこにしようかな郡山高校かな、奈良高校かななんて思ってたんですけれども、一緒に帰ってきた兄が試験を受けて奈良高校に編入したんです。そして、中学2年の私もその年の秋の青丹祭に行きました。そして、そこで見たのがあの奈良高校からの眺めですね。まあ、大和平野といいますか、奈良盆地といいましょうか、吉野の方までちょっと見渡せる絶景そして、左の方を見ると若草山と興福寺の五重塔が手に取るように見える。これはいいなと思ってまあ、奈良高校を大変気に入ったということもありまして、奈良高校を進学先に選んだわけです。
 演題に南極からっていう風にありますけれども、小学生の頃から、雷とか、台風とかが大好きだったんです。それらに心躍るようなことを覚えていました。雷が鳴ると窓にずっと張り付いて見ていました、そして気象の勉強がしたいなと思っていました。だから高校を出たら大学はどこに行ったらいいかなと考えてまして、地球科学科ってところかななんて勝手に思い込んでました。でも高校になってみると、それは地球物理だよ、地球物理学科に気象学講座っていうのがあるよって聞いて、あーそうなんだってちょっと調べました。日本の国立大で4つあったわけですね。東大と京大と東北大と北大。東大か京大か東北大か北大。やっぱり北海道でしょうということなんですけれども。その頃すでに北への憧れがありまして、南極に行ってみたいなという思いがあったんです。だからじゃあ狙うのは絶対北大だと思って、もう高校1年生ぐらいのとき北大かなとずっと思っていました。そして共通一次試験もありましたね。その頃は文系も理系も5教科7科目です。文系の人も理科を2つ、理系の人も社会を2つ必ず選択しなきゃいけなかった。大変な時期だったんです。でも数学は数Ⅰのみでした。私は運良く200点取れて、北大に入ることができたんです。じゃあその辺までにしておきましょうかね。
 オペラの話にいきましょう。オペラというのは1600年にイタリアで生まれました。1600年というと関ケ原の時ですけれども、すでにイタリアではそういうものが生まれていた。もともとはキリスト教の宗教劇のようなものだったんですが、貴族の娯楽として生まれました。そしてこれから演奏するのはモーツアルトですね。モーツアルトの一番の最高傑作のオペラと言われる「フィガロの結婚」、この中から一幕の最後に歌われる「もう飛ぶまいぞ、この蝶々」ちょっと昔の文語調の言い回しですけれど、ケルビーノという小姓をちょっとからかっている歌、もうお前は兵隊に行ってしまうんだぞ、華やかな生活は送れないぞという歌を歌います。

 

「もう飛ぶまいぞ、この蝶々『フィガロの結婚』より」モーツァルト作曲 

 

 オペラの一場面をちょこっと動いてやりましたけれども、こういう歌を歌っている方が自分としては歌いやすいですね。フィガロの結婚でした。これは、ウィーンで初演されたんですけれども、初演は数回で終わってしまいました。というのは内容が階級社会の崩壊につながりそうなものだったのですね。時代は1784年、フランス革命直前だったんです、そういうことで貴族の人たちはこれはちょっと危ない作品だから打ち切りにしようということで打ち切りになったんです。そして失意のモーツアルトが向かったのは、チェコのプラハなんです。プラハではこの作品が大変人気だったんですね。道行く人が今の歌を口ずさんでいた。とっても気をよくしまして、プラハの歌劇場から次の作品を依頼されて作ったのが次にお送りする『ドン・ジョヴァンニ』。これはドン・ファン伝説によるものなんですけれども、あまり人気があったのでモーツアルトが、フィガロの結婚の今の歌を『ドン・ジョヴァンニ』の中に入れたんですね。『ドン・ジョヴァンニ』の晩餐の場面でBGMのように楽隊が舞台上で演奏する場面があるんですけれども、この曲を弾きだすんです。これはどこかで聞いたことのある音楽だな、と言って歌わせるんですね、従者に。きっと、プラハの人達は大喝采だったんじゃないかなと思うんですね。
 それで、次に歌うのは、オペラ『ドン・ジョヴァンニ』の中の曲です。ドン・ジョヴァンニは言ってみれば女たらしなんですけれども、言い方を変えると博愛主義者、全ての女性を愛そうというものだったのかもしれない。第二幕で自分の従者レポレッロと衣装を取り替えて、貴族、騎士だったんですけれども民間人の姿をして、ある女性をくどこう、そしてその時に演奏するのがマンドリンなんです。実際に舞台でマンドリンを持つんですけれども、初めは弾いているふりをするんですけれどもそのうちに弾かなくても音が出るんです。というのはオーケストラ・ピットの中にマンドリン奏者がひとり入って弾くんです。実は、7~8年前かな、ここ(奈良高校体育館)の下の部屋(小講堂)で、ギター・マンドリン部の部活の時にこれを歌ったことがあるんです。というのは、私が1年1組の時の同級生がマンドリン部のOGでギターを弾いてるんですけれども、今でも仲良く一緒に演奏したりするんですけども、彼女に言われて「今度ギター・マンドリン部が、この『ドン・ジョヴァンニ』のセレナーデという曲をやるんだよ。じゃあ、一緒にちょっと来てくれない」。尼崎でオペラの仕事があったときに寄って一緒に演奏したということがあります。
 今日伴奏を弾いてくれますのは、比留間千里さんです。私とはもう24年ぐらいのお付き合いになります。かゆい所に手が届くということでなんでもやってくれる人なんですけれども。その比留間さんがマンドリンと関わりがあるそうで、ちょっとお話をお願いします。

比留間千里さん
 私の父のおばが、比留間きぬ子と言いまして、日本で初めてマンドリンクラブというかマンドリン教室を始めて、マンドリンを日本に広めたそうなんです。私は会ったことがないんですが、もしかしたら先生方で名前をご存知なかたもいらっしゃるかもしれないんですが、ちょっとご縁を感じてしまいました。なので私の遠い親戚に恥ずかしくないよう、ピアノでマンドリンの音を弾きますので、頑張って弾きたいと思います。そういう縁もありました。じゃあ歌ってみたいと思います。『ドン・ジョヴァンニ』の中からセレナーデ、女性に愛の言葉をささやく歌です。
 
「セレナーデ『ドン・ジョヴァンニ』より」モーツァルト作曲

   

 マンドリンでした。でも実際にマンドリンを持つんですけれども、弦も張ってあります。でも実際音が出ちゃったらまずいんで、うまく出ないようにエンドのあたりにセロハンテープみたいなビニールテープかなんか貼って、音が出ないようになっています。私もやったことがあります。
 じゃ、さっきの話の続きに行こうかな。北大に入ったんですけども、そこで、中学生の頃にですね、音楽の先生に、「コーラス部、合唱部入らない?」って言われたんですけど、私は「入らない」って言ってました。一生懸命歌ってたんでしょうかね、音楽の授業の時。そして高校に入りました。1年1組地学組だったんですけれども。同じクラスにある女性がいて、彼女は声楽をやりたかった、でも家が医者なのでそのまま声楽に進むことはできないんだって言いながら、「星野くん、歌やらない?」って誘って来たんですね。僕がよかったのかよくわかりませんけど、やっぱり音楽の授業で歌ってる姿を見て、「いいな」と他の人が思ってくれたのかも知れません。その時の音楽の先生は佐竹史郎先生という方で、その後吹奏楽の指導者としても県下で随一の方になってますけどもね、その佐竹先生のレッスンを受けながらやってるんだと言われたんです。「あ、そうなのか、じゃあ大学生になったら合唱やろうかな」って思っていました。そして大学に入って、北大の混声合唱団に入りました。北大では混声合唱団はやや貧弱だったんですね。それで、「グリークラブ」という男性の方は人数も多くて、かなり力もあったんですけど、合唱というのは混声合唱しか知らなかったので、迷わず入りました。そこで合唱に夢中になりました。夢中になって夢中になって、そうですね、下宿に住んでいたんですけども、朝は寝ていて下宿の食事を食べない、そして夜は帰って来ないから下宿の食事を食べられない。もともと痩せていたのにますます痩せてしまったんですけれども、でも、団室にですね、合唱団の団室に夜中入り浸ってレコードを聴いたり、ちょっと歌を歌ってみたり、ピアノをいじったりしてました。ピアノが弾けたわけじゃないんですけどもね、なんか合唱に夢中になりました。そして二年生になって、指揮者になりました。指揮を始めた途端に指揮者になりたくなっちゃったんですね。音楽の勉強を専門的なことはやっていないんだけども、なりたくなった。じゃあ南極はどこ行っちゃったの。南極はどっか行っちゃったんですね。今日ご紹介していただいた森田先生とはその頃はきっと一緒に在学してたから、どっかで会ってるかもしれないんだけども、お互いに同じ大学に行ってたって全然知らなかったんですね。南極よりも音楽だって思っちゃったんですね。それで二年生の秋に、札幌地区の五大学混声合唱ジョイントコンサートっていうのがありました。そこが初ステージなんですけれども、そこで千何百人くらいのホールで指揮をしました。合唱は40人くらいだったかな、お客さんに背を向けてやるわけですよね、指揮は。でも、その時のことが、体験がものすごく気持ちよくて、自分は人の前で何かをする人間だなとそのとき確信したんですよね。そういう若いころの確信って思い違いもあるかもしれないですけど、その時は思いました。じゃあ音楽の道へ行こうということで、二年目の秋にもう北大はいいやということで、そっから勝手に音楽の方へ進もうとします。で、それからじゃあどうしたらいいのかなって、東京芸大かな、例えば、国立音大かな、武蔵野音大かなって桐朋音大かなっていろいろ調べましたけど、非常に高いわけですね、やっぱり国立しか無理だなって思いまして、近くに、北海道教育大札幌分校、そこに特設音楽科っていうのがありまして、学生オペラをやっていたんですね。音楽がとっても盛んだぞってそこのオペラ公演を見に行ったらびっくりしました。すごいレベルだったんですね。テレビで初めて見たオペラ、っていうのも同じモーツァルトの『魔笛』というオペラを見たんですけども、『魔笛』をやっていて、すごい上手だ、学生とは思えないぞって思ってちょっと身の引き締まる思いをしまして、二年目の冬からピアノをやり始めた。ヤマハの音楽教室に通ったんですよね、小さい子と一緒に。通って一年間ピアノを少しやって、それでソルフェージュとかちょっと歌の方もやり直したり、じゃなくて初めてやって、一年後に受けたらなんとか受かったんです。そのころは共通一次試験ももう一回受けなきゃいけなかった。なんとか受かったんで、教育大学に入ってそこで出会ったのがオペラなんです。一年生の時にコダーイという作曲家の「ハーリ・ヤーノシュ」というオペラを演奏会形式で日本初演をしたんですね。その時に、一年生なんだけどオーディションでひとつ役をもらったんです。そしてオーケストラがバックにいます。その後ろには合唱の人たちがいます。四年生まで全員で演奏するんですけれどもね、ソリストとして歌いました。その時がとっても気持ち良かったんですね。初めて指揮をした同じホールなんですけどもね、背中を向けて味わった感覚よりもさらにさらに何倍も気持ちよかったんですね。あ、オペラだな。その時に完全にオペラの魅力にとりつかれてしまって、自分はオペラで生きていこうと思ったわけですね。その後、どんどん学生オペラを進めていったり、若手のグループで新しいグループを作って難しいオペラをやったり、でもその中では札幌のレベルではだめだ、もっと自分を厳しい所に置いておこうと思って東京に出ていきました。東京の二期会のオペラスタジオという勉強するところに入って、そこを三年間出ました。三年間出るときには修了公演というのがあるんで、そこではバリトンで一番いい役を絶対勝ち取るぞ、そして二期会の会員という称号というか看板を絶対もらうぞと思って、そしてオペラ公演では『フィガロの結婚』のフィガロをやりました。でもソプラノという女性の高い声の人は多いんですね。恋人役のスザンナは一、二、三、四幕、各一人ずつ四人も相手したんですけれどもね、恋人が四人変わるなんて珍しいですけれどもね、そんな体験もしましたけれどもね。そうやってオペラの道に進んで一応名前を出したぞというところまでいきました。
次の曲にいきましょうか。次はイタリアオペラ、ヴェルディ、イタリアの作曲家ですけれども、乾杯の歌、皆さん知っていると思いますけれども、コマーシャルなんかでも使われますから、乾杯の歌も出てくる『椿姫』の中から第二幕で、お父さんが切々と息子に問いかける「プロヴァンスの海と陸」、大変難しい曲です。さっきみたいに軽々と動いたりしない、ちょっとバリトンにありがちな、自分としてはもっと動きのあるのが好きなんですけれども、その歌を歌ってみます。

 

「プロヴァンスの海と陸 『椿姫』より」ヴェルディ作曲  

 

 ブラボーいただきまして、ありがとうございます。歌い手って、こうやっていっぱいしゃべるのを嫌うんですね。のどの使い方も違うんですが、のどが疲れて歌うときに支障があるんですけれども、私は結構しゃべるのが好きなんです。さすがにこの歌を歌うのにこんなにしゃべって大丈夫かな、かなり不安があったんですけれども何とか歌えたかなと思います。次は世界で一番人気のあるオペラ、これが『カルメン』なんですね。カルメンはスペインを舞台にした妖艶な女カルメンといわれますけれども。男性からも女性からも人望を集める人気のある女性、自由奔放に恋をする女、恋多き女とも言われますけれど。『カルメン』全四幕、これはフランス語で作られています。ビゼーというフランス人の作曲家が作りましたけれどもね、これは初演が大失敗だったそうです。オペラ界の三大初演大失敗の中に、この『カルメン』と『椿姫』、そして『蝶々夫人』が入っているそうなんですけどもね。失意の中でビゼーが亡くなったのかな。初演の数か月後亡くなったんですけど、今では世界で一番人気があります。というのも、オペラの生まれたイタリアでどうなのかなと聞いてみました。ローマ出身の指揮者に聞いてみました。「イタリアで一番人気のあるオペラは何ですか。」と聞きましたら、彼は、考えた末に「残念ながら『カルメン』です」と言いました。やっぱり、オペラの生まれた国としてはイタリアオペラであってほしいんだけれども、イタリアでもやっぱり『カルメン』が一番人気なんだなということでした。それではカルメンの後の恋人になるエスカミーリョが歌う闘牛士の歌です。

 

「闘牛士の歌 『カルメン』より」ビゼー作曲  

 

 これは酒場で歌われる曲なんですけれどもね。練り歩いていましたけれど、なかなかいいね、近くへ行ったらなんだでかい声だなあと思われたかもしれませんけれど。人間の声って結構大きな声が出るんですよね。歌の場合は、身体が楽器です。ピアノはこんなおおきなボディです。ピアノは3歳ぐらいに始めないとプロとして通用しないと言われています。5才ではちょっと遅いかな。比留間さんは、何歳から?3歳くらいから、やっぱりやってるんですよね。バイオリンなんかも3歳ぐらいで始めないと無理だと言われています。でも、私は何歳から始めたかと言われますと、ほとんど20歳くらいですね。身体が楽器なもので、やはり特殊なんですね。小さい頃から児童合唱をやっていても身体の成長とともに楽器が違うのでうまくいくとは限らない。むしろやらないほうがいいこともある。身体ができてから、やったほうがいい楽器なので、歌の場合は後からでもぜんぜん大丈夫です。この中で今日聞いて、俺も私も歌やってみようかなと思ったら、結構望みありますよ。マンドリンもいいですけれど、歌もどうですか。歌は気持ちいいです。総ての楽器はお客さんに正対していない。歌だけなんです。歌だけがお客さんと目を合わしながら、そういうものなんで、訴える力が強い特殊ですね。私はこうやって南極を目指していたのに、森田君は南極に行きましたけどね、夢のような話ですけれども、もし歌のほうに行っていなければ、例えば教員をやっていたら、そのプロジェクトに私も絶対応募していたと思います。森田君と競り合ったかもしれないんですけれども、なぜか音楽のほうに行って、でもそれが自分の道だなと思って別に何の後悔もなく進んで、今こうやって音楽で生計をたてていられるんで満足していますけれどもね。だから、みなさんも今、進学のこととか結構よく考えていると思うんですよね。どこどこの大学にしようかしらとか、この前の模擬試験がどうだったとかあると思うんですけどね、でも僕だってそうやって思って望みの学校へ行ったんだけど、全然違う道に行っちゃったわけですよね。そういうことってあります。だから、何かのチャンスでこの道ってどうかなと思ったときに、そっちへ進む勇気と自信があるかですね。自分の人生、こっちに賭けてみようかな、おもしろそうだな、若いうちは何度でもいろんなことやり直しもできますから。やってみてはどうでしょうか。一つの道を、決まった道に決めることはないと思います。最後の曲ですけれども、そういうふうな夢追い人、ドンキ・ホーテの物語なんですけれどもね、『ラ・マンチャの男』というミュージカルの中から「見果てぬ夢」、夢を追い続けていきましょうという歌をみなさんへのエールとして最後に歌わせていただきます。

 

「見果てぬ夢 『ラ・マンチャの男』より」

 

  

創立記念講演会

 昭和47年から毎年、創立記念日(11月1日)の前後に、奈良高校の在校生を前に講演を行っています。

 卒業生で講演希望の方は本校 総務情報課 (0742-23-2855)まで、ご連絡ください。