これが六条山遺跡です

 本校の正門を入ると目の前に、古墳のように見える小山があります。これは、『六条山遺跡』と呼ばれる弥生時代の住居跡です。

六条山遺跡(校門より) 六条山遺跡(校舎4階から写す)

公開講座の内容を紹介します

 創立30周年を迎えた平成19年6月2日(土)10:00〜12:00、本校会議室にて、「住民のみなさんと学ぶ地域の古代史公開講座『六条山遺跡と大和の弥生時代』」と題し、当時橿原考古学研究所の調査研究部長であった寺澤薫氏を講師に招いて、記念講座が開催されました。六条地区の地域住民の方々を中心に、保護者、生徒、職員など約80名が参加し、見慣れた校地内の遺跡を舞台にした古代のロマンに思いを馳せ、熱心に学びました。この内容をご紹介しましょう。

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本校開校直前に発見されました

 昭和51年11月、本校の開校に向けて開発されていた丘陵地に、弥生土器が落ちているのを発見した寺澤氏は、この地に遺跡があると確信され、翌52年に行われた橿原考古学研究所の調査によって、弥生時代後期(紀元前50年〜後200年)の住居跡「六条山遺跡」が発見されました。寺澤氏は、故・末永雅雄博士とともに、最前線でこの発掘に携わられたのです。その結果、現在のグランド周辺で弥生土器多数が出土し、校門から昇降口のあたりでは住居跡5基などが発掘されました。土器の総数は、1,183個体にのぼったということです。

弥生時代後期の「高地性集落」の遺跡です

 六条山遺跡の竪穴式住居は標高100mの高台にあります。稲作が現在の六条西交差点のあたりで行われたとすれば、住居跡との高低差は40mほどあり、決して便利とはいえません。また、現在の会議室付近で発見された遺構には柱跡がなく、実用に適さない足つき土器やものを焼いた跡が多く発見されたことから、ここが祭祀や通信の場であったことがうかがえます。つまり、この集落は高地性集落で、人々は少し低いところにある田で稲作を営みながら、小高いこの地に住み、周辺の監視をしつつ、狼煙を中継したり集落を防御したりしていたのではないかと考えられるのです。現在校門前にある遺跡は、第3号と第5号の住居跡を埋め戻して土を盛り、保存したものです。

家族単位で住んでいたようです

 六条山遺跡の発掘と研究報告をとおして、弥生時代後期の土器の様式を編年する方法が確立され、細分研究が一気に進みました。また、すでにこの時代、いわゆる「家族」と呼ばれる単位が、集落の中で分かれて住んでいたことが追認できました。このころ奈良盆地には、水系に沿って20数箇所の集落が存在したといいますが、200年前後に政治再編のうねりの中でこれらの集落が消えていくまで、恵まれた環境の中で自然と共生しながら、奈良盆地の人々は安定した共同生活を営んでいたのではないかと考えられます。

遺跡は西高の風景に溶け込んでいます

 弥生時代後期の高地性集落の遺跡の上に本校は建っています。四方の見晴らしがよい理由も納得できます。初代校長がこの地を弥生台と名づけたのもこの遺跡ゆえですし、「クラブハウス弥生」「総合的な学習の時間“弥生ゼミ”」なども、これにちなんだ命名です。気候のよい季節には、西高生が遺跡の上でお弁当を広げる姿が見られ、六条山遺跡は西高の風景の中に溶け込んでいます。

 2,000年以上前、弥生時代の人々が自然と語り合いながら稲を育て、見晴らしのよいこの地で家族仲良く暮らしていた…はるか昔のそんな情景を思い浮かべれば、いつもの風景がまた違って見えてくるようです。