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十津川と隠岐の共通点

 私たちの住む村、十津川村と隠岐とは前述した歴史的なつながりもあり、共通点も多くあります。
十津川と隠岐の共通点 その1 - 「尊王攘夷思想」
●十津川
1863年 「天誅組の変」
 尊王攘夷派浪士(天誅組)が大和国(現在の奈良県)で決起し、五條代官所、高取城を襲撃しましたが、幕府軍の討伐を受けて壊滅した事件です。

 天誅組は挙兵の直後、「8月18日の政変」が起こり、京の攘夷派は失脚してしまいます。天誅組は「暴徒」とされ追討を受けることになります。天誅組は天辻(奈良県五條市大塔町)に本陣を移し、土佐脱藩浪士の吉村寅太郎は十津川村に入り、反乱に加入を説得します。その結果、野崎主計ら十津川郷士960人を要しましたが、戦意に乏しく、あまりの酷さに玉掘為之進ら十津川郷士は指揮官に抗議しましたが、攘夷派公卿の前侍従中山忠光らに憎まれ天辻峠で斬首されました。
 幕府は諸藩に命じ、大軍を動員して天誅組討伐を開始します。天誅組は抵抗するものの、追い詰められます。朝廷から天誅組を逆賊とする令旨が京都在住の十津川郷士、前田雅楽に下され、急遽現地に赴いた前田は十津川郷士を説得します。そこで主力の十津川勢が9月15日に離反し、十津川郷士代表の野崎主計は責任を負い自害しました。

「天誅組の変」概要 1863(文久3年)

8/13孝明天皇詔勅「大和行幸」計画。この計画を機に、三条実美らが倒幕計画を謀る。中山忠光(長州派、孝明天皇后の弟)を中心に、吉村寅太郎、藤本鉄石、松本奎堂ら38名の勤皇の志士が集結(天誅組の母体となる)
8/14京都 方広寺に集結し、決起の準備
8/15京都を出発し、富田林の大庄屋水郡家に集結。水郡家の援助を受けながら、五條代官所の襲撃計画を練る。
8/17五條代官所の襲撃。着任間もない鈴木源内代官他三名を殺害、代官所の焼き討ちを行なう。
8/18京では「八月十八日の政変」により、大和行幸中止、長州派の公家は追放。これにより、天誅組は「大儀名分」を失う。
8/21天辻峠に本陣を移す。
檄文を十津川郷に発し、援兵を募る。
『火急の御用に付き十五歳から五十歳までは残らず御本陣へ出張すぺし。理由もなく遅れた者は由緒を召し上げ厳科に処す。』
8/24この日の夕刻、天辻峠の本陣に、十津川郷士1500名余りが、鉄砲、槍、薙刀などを携え、集結。
8/26十津川郷士を加え高取城を攻撃する。高取側の大砲と鉄砲の一斉射撃を受け総崩れし惨敗。天辻峠に敗走。
以後、十津川郷を転戦する。本陣を長殿、上野地、風屋、武蔵と移す。
京の十津川屋敷から天誅組は賊軍となった旨の知らせを携えた使者が来る。
9/16風屋の福寿院で、帰郷の十津川郷士前田雅楽が代表となり、天誅組の退去を訴える。十津川郷士は離反。天誅組は十津川を退去。
その後、9月24日から27日にかけて、鷲家口で幕府軍と激突。吉村寅太郎らの幹部も相前後して戦死、天誅組は全滅する。中山忠光ら主従7名は脱出し、大阪の長州屋敷に入る。
9/24十津川郷士のリーダー野崎主計、郷里の川津山中狸尾にて自刃。(39歳)
辞世:討つ人も討たたる人も心せよ 同じ御国の御民なりせば
9/25十津川郷士のリーダー深瀬繁理、斬首される。(37歳)
辞世:あだし野の露と消えゆくもののふの 都に残す大和魂


●隠岐
1868年 「隠岐騒動」
 松江藩の郡代や代官を島から追放し、住民が80日間の自治政府を樹立させました。
 ※詳しくは、LinkIcon隠岐の歴史 のコーナーをご覧ください。

★十津川、隠岐ともに
 尊皇攘夷の思想 ⇒ 倒幕
 という時代の流れのきっかけをつくったと言えるでしょう。


十津川と隠岐の共通点 その2 - 「廃仏毀釈」
 「廃仏毀釈[はいぶつきしゃく]」とは、明治維新政府が打ち出した神仏分離令によって、示された仏教施設の破壊行為のことです。
明治元年(1868年) 神仏分離令により、奈良時代以来の神仏混合の風習を打破し、神道保護のために、寺院の支配下にあった神社を独立させました。
 神仏分離が進むと、神官・国学者が中心になり神仏分離を極端化した、寺院・仏像・経典を壊すなど、釈迦のすべてを否定する「廃仏毀釈」となっていくこととなりました。

●十津川
 十津川では廃仏毀釈が徹底して行われ、54もの寺がすべて壊されてしまいました。
※詳しくは「遠い分だけあったかい十津川の旅」 - LinkIcon神仏分離と廃仏毀釈 をご覧ください。

●隠岐
 隠岐では廃仏毀釈の名のもとに全島で100余りの寺院が迫害にあい、伽藍、仏具、仏像、寺宝などが壊され、寺院財産も没収されました。

★十津川、隠岐ともに他の地域では見られないほどの徹底した廃仏毀釈が行われました。


十津川と隠岐の共通点 その3 - 「向学精神」
 十津川では1864年に文武館ができました。現在の十津川高校です。
そして、十津川に文武館がつくられることを知った隠岐の人たちは向学に燃え、十津川と同じ学問所をつくって欲しい願いから、1867年に「文武館設置嘆願書」を提出しました。
しかし、残念ながら、隠岐には文武館はできませんでした。
もし、この時隠岐に学校ができていたら、十津川高校の姉妹校ができていたかも知れません。

●十津川
 1864年 文武館を開学
 ⇒ 十津川高校(現在)
 中沼了三が十津川の地に開学した「文武館」

●隠岐
 1867年 「文武館設置嘆願書」を松江藩に提出する
 ⇒ 却下されるが向学の精神は持ち続ける。

 十津川に開学した「文武館」を隠岐にも開学したいと願う人々の願いが隠岐騒動につながったと言われています。

★十津川、隠岐ともに文武両道の拠点として文武館設立を願いました。