奈良県立十津川高等学校 吉野熊野学 > 十津川と隠岐 > 隠岐の歴史

奈良県立十津川高等学校

隠岐の歴史

 『続日本紀』によると、724(神亀元)年、隠岐は配流の地(島流しの場所)として定められ、配流には近国と遠国があり、隠岐は遠国に指定※されました。
 権力争いに敗れた皇族、僧など、身分の高い人が配流されています。

※庚申、諸の流配の遠近の程を定む。伊豆・安房・常陸・佐渡・隠岐・土左の六国を遠とし、諏訪、伊豫を中とし、越前・安藝を近とす。(続日本紀 巻9)

 1221年に後鳥羽上皇(1180~1239)が鎌倉幕府に対して討幕の兵を挙げて敗れた承久の乱の時には後鳥羽上皇、
 1331年に後醍醐天皇(1288~1339)が鎌倉幕府の倒幕運動を起こした元弘の乱の時には後醍醐天皇が隠岐に流されたと言われています。

 鎌倉時代には近江の佐々木氏が出雲国とともにこの地の守護を兼ね、南北朝時代には、山崎氏が支配していました。

 室町時代から戦国時代にかけては、京極氏(佐々木氏)、尼子氏、隠岐氏が争い、吉川氏の支配するところとなりました。

 江戸時代には、1600年に堀尾吉晴が出雲・隠岐の国主となり、1634年には京極忠高がこれに代わり、1638年に松平直政が出雲に入り以降は天領となりました。

 明治に入ると1869(明治2)年2月に隠岐県となり、8月には大森県に合併され、1870年に浜田県と改称された後、1876(明治9)年に島根県に編入されています。


隠岐騒動(雲藩騒動)
 1868年(慶応4年)におこった隠岐島後での歴史的事件です。
 明治新政府の役人西園寺公望から隠岐国(幕領で松江藩の預かり地となっていた)の村役人に宛てた手紙を松江藩の役人が勝手に開いてしまったことをきっかけに、これを怒った島後の島民3000人がその責任を追求しようと立ち上がり、松江藩の郡代を追放してしまい、その後、島後では、80日あまり、島民による自治政府ができました。この時期を中心とした松江藩と隠岐島民との抗争を「隠岐騒動」といいます。
 その後、松江藩の巻き返しがあり戦となり、隠岐の壮士14名が戦死するなどした後再び松江藩の治めるところとなりました。