奈良県立十津川高等学校 「十津川の旅」 > 見る十津川 > 楠正勝・佐久間信盛の墓

遠い分だけあったかい 十津川の旅

見る十津川

自然の贈り物「秘境の旅」

楠正勝[くすのきまさかつ]の墓 ・・・ 南朝の勇士の孫
武蔵
 十津川村武蔵の地で再挙を図り志半ばで倒れた楠正勝。でもなぜ武蔵という山深い場所を拠点にしたのでしょう?


佐久間信盛の墓 ・・・ 信長に長く仕えた「宿老」
 この人の墓も同じ武蔵という集落にあります。あの織田信長に仕えたほどの人が何故辺境の村にとばされたのでしょう?

楠正勝・佐久間信盛看板楠正勝・佐久間信盛の碑

楠正勝
 楠正勝は応永11年(1404)に、または応永18年(1411)正月15日に病死したとも言われています。
 楠正勝は、南朝の忠臣楠正成公[くすのきまさしげこう]の孫に当たる人であり、 金剛山千早城落城後、弟の正本と一緒に十津川にやってきて、武蔵に住居を持ち、再挙を図って10年近くすんでいたらしい。この山深い武蔵なら、敵も攻めにくく、海からかなり遠いので安全だと考えたようです。しかしこちらからもなかなか攻められずそのまま病死してしまったそうです。
 武蔵に住んでいる人々は毎年4月3日に祭りを行い楠正勝の霊を弔っているそうです。
楠正勝の墓

佐久間信盛
 佐久間信盛は、織田信長に長年仕えた家臣で、【宿老】とまで呼ばれ、有名な柴田勝家と並ぶ重臣でした。そのような重要な人がなぜ山奥で生涯を終えてしまったのでしょうか?
 そのわけは、戦に失敗して、信長の追放命令によって一度は高野山に追いやられました。さらに信長から、高野山に住むことかなうべからず」といわれ、仕方なく十津川村の武蔵という山奥に住んだといわれています。しかし同時に数々の武勲を打ち立て、一時はすさまじい権力を持っていた佐久間信盛。本願寺攻めで上手く戦果が上がらなかったという理由だけで追放した織田信長の激しく短気な性格が少し分かるような気がします。
佐久間信盛の墓