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遠い分だけあったかい 十津川の旅

見る十津川

自然の贈り物「秘境の旅」

玉置神社Q&A(地元の方にお聞きして)
Q.玉置神社と十津川村との関わりについて教えてください
A.
・各字には玉置神社の分社や遙拝所[ようはいしょ]があり、信仰されています。
・各地区(村内には7の区がある)には氏子総代がおり(複数の総代を出すところもあり、総勢13名)、玉置神社の世話役になっています。
・村民は皆玉置神社の氏子です。
・それぞれの家には、玉置神社から頂いてきた「お札」をまつる習わしがあります。

Q.例大祭と十津川村との関わりについて教えてください
A.
・戦前は村内の学校(小学校、中学校、文武館=高校)も学校の行事として例大祭に参加していました。戦後は玉置山遠足という形になりました。
・村内でも一番大きな行事であったので、村民は大変楽しみにしていました。
・小さいときは、5銭や10銭をもらって祭りに行き、境内にたくさん出ている出店(露店)でお菓子やおもちゃを買うことが一番の楽しみでした。
・戦後は学校の民主化と共に、学校行事としての参加という形が取られなくなりました。
・例大祭の行われる3日前から、地区から代表者(女性)が手伝い(奉仕作業)として、清掃作業、食事の世話などに行っていました。関係者を会わせると約100名となりました。これらが泊まりがけで準備にあたりました。女性は神社の仕事はできないという所がありますが、玉置神社ではそのような女人禁制の風はなかったようです。
・祭りの準備は、昔は各地区が年番で担当し、準備の年には野菜や餅米などを歩いて山まで運び上げました。今のような道路は昭和40年代後半(S44)にできたもので、それ以前は山道しかなく、村民は足と手で祭りの道具や荷物を運び上げました。もちろん祭りに参加する人々も徒歩でした。
・神輿は、昔は担当の地区の男たちが担ぎましたが、祭りに来た人たちも参加し、誰もが担ぐことができました。そのため喧嘩腰になることも多く、危険でけが人も出る有様でした。今は過疎化が進んで、地区の人数も減ったので、地区から選出された人たちが神輿を担ぐことになっています。神輿を担ぐ人たちは、神社に入る前に祓いをして、白装束に身を包んで担ぐことになっています。
・神輿が御旅所に来るのは、神が人間の世界にやってきて共に楽しむという意味があります。
・餅つきについて、昔は地区から餅米が運び込まれ、餅つきに出ていました。餅つきの祭には「餅つき歌」が歌われ、現在の餅つき踊りにつながっています。今は各地区に割り当てられていて、出来上がった餅を奉納するようになっています。
・餅つき踊りは神に奉納するもので、恵みを神に感謝するものです。
・祭りには村民はもちろん、勝浦や熊野などの漁師の人たちも昔から参加しています。国道が開通する以前は、プロペラ船で来ていました。玉置神社は熊野三山の奥院でもあり、豊漁を願う漁師たちの信仰をも集めています。そのため供え物も大きなブリなどを供えるそうです。
・祭りへの参加について、昔は村民の一大行事でもあり、多くの村民が祭りに参加していました。今は過疎化のために祭りに参加する村民が減り、村外の人(特に他府県の人)の参加が目立っています。村民の割合は約1割程度であると思われます。

Q.玉置神社と十津川村との関わりについて教えてください
A.
・各字には玉置神社の分社や遙拝所[ようはいしょ]があり、信仰されています。
・各地区(村内には7の区がある)には氏子総代がおり(複数の総代を出すところもあり、総勢13名)、玉置神社の世話役になっています。
・村民は皆玉置神社の氏子です。
・それぞれの家には、玉置神社から頂いてきた「お札」をまつる習わしがあります。

Q.玉置神社について詳しく教えてください
A.
・神代杉は樹齢3000年と言われていますが、標高1000mの地点にこのような杉の巨木があることは珍しく、黒潮や多雨の気候など様々な要素が偶然に一致したものの結果であると考えられます。
・十津川の名の由来は、海から遠い、都から遠い、また十本の支流が本流となっているところもその理由らしいです。
・巫女の制度は新しく、平成10年より始まっています。それ以前は男性が神子として舞いを奉納していました。玉置神社に至る交通事情が悪く、女性が山に入れなかったのでしょうが、大峰山の信仰とのつながりから、女人禁制の風があったとも十分考えられます。
・明治期の廃仏毀釈について、十津川村では他と違ってそれが徹底的に行われたましたが、その理由として僧坊の専横ぶりがあったらしいです。神仏習合で玉置山には15の寺があって、僧侶たちは山の財を背景に豊かな生活をし、大いに特権的でした。(多くの山林を所有していました。)これには村民もかなりの不満を持っていたらしく、神仏分離令が出ると隠岐出身の文武館長が廃物運動を展開し、村民もこれに続きました。以後玉置神社の横にある出雲大社教に村民すべてが入信し、祖霊はここで祀ることになりました。こうして十津川郷社としての体裁が整うことになりました。逆に明治以前はむしろ寺の勢力の方が強かったとも推測できます。